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飛騨にありて福島を思う

日本語の美しさを感じるDREAMS COME TRUEの曲3選

DREAMS COME TRUEは、ボーカルの吉田美和とベースの中村正人からなる、日本を代表するバンドだ。

 

代表曲の「未来予想図Ⅱ」や「何度でも」は、誰しも一度は耳にしたことがある人気曲。でもその他にも、素晴らしい曲がたくさんある。

特に僕は、吉田美和のいかにも日本らしい作詞が好きだ。

 

そんな、日本語の美しさを感じさせてくれるドリカムの曲を3曲紹介しよう。

 

1.あの夏の花火

1992年発売のアルバム「The Swinging Star」に収録された曲。

優れた俳句の条件の一つに、情景がすぐに思い浮かぶ、というのがある。同じ条件で言えば、「あの夏の花火」とは、名句である。

明るいメロディーのAメロBメロでは、主人公の女性が誰かと花火大会へ行く。目、耳、鼻、手の感触で、無駄なく描写される花火大会の様子は、まるで自分が実際にその場にいるような感覚にさせてくれる。

しかしサビでは、この花火大会が過去の出来事で、一緒に見に行った「誰か」は主人公の側にはもういないことが分かる。

主人公が「あの夏の花火」を思い出している様子を、吉田美和の伸びやかな声で表現している。最後まで聴き終わるころには、明るく感じたメロディーは、どこか切なさを感じさせる。

散っていく姿にも美しさを感じさせる日本の文化、花火大会の風景を中心に歌い上げるこの曲から、日本らしい美しさを感じる。

あの夏の花火

あの夏の花火

  • provided courtesy of iTunes

 

2.時間旅行

1990年発売のアルバム「WONDER3」に収録された曲。

情景が思い浮かぶという点で、「あの夏の花火」と同じく日本らしい曲だが、こちらはさわやかな気分にさせてくれる、純粋なラブソングだ。

たわいもない日常こそが、一番幸せな瞬間だという主人公の純粋な気持ちを、2人のいるさわやかな風景を軸に素直な言葉で表現している。

何度も繰り返される「あなたがいれば泣けるほど幸せになれる」というストレートな歌詞は、主人公の心の声である。愛していることをなんて表現したらいいのか分からないのだ(もしくは、愛していることを主人公なりに表現した言葉)。

I love you を月がきれいですねと訳したとされる夏目漱石のように、直接的な言葉を使わない表現は、ある意味日本人らしい表現だ。結婚披露宴のプロフィールムービーにもぴったりの曲だ。

時間旅行

時間旅行

  • provided courtesy of iTunes

 

3.眼鏡越しの空

「あの夏の花火」と同じく、1992年発売のアルバム「The Swinging Star」に収録。

穏やかなメロディーと吉田美和の丁寧な言葉選びで、一人の女性が変わっていく姿を描いている。

眼鏡をかけている自分の姿が好きじゃない主人公は、「あなた」という誰かに憧れている。

短い髪、シャンとした後ろ姿、強くて綺麗な字、そんな姿で描かれる「あなた」のようになりたいと思う主人公。「あなた」への思いは、恋愛感情というよりも、同性の誰かへの憧れのように聞こえる。

本当の自分を隠すため、なにかから守るための眼鏡。でも主人公は、眼鏡を隠れ蓑にしていた自分を変えていこうと思い立つ。

前の2曲と比べて直接的な説明が少なく、明確な答えがないため、聴き手がいろいろな想像ができる。短い曲だが、一つの文学のような素敵な曲だ。

眼鏡越しの空

眼鏡越しの空

  • provided courtesy of iTunes

 

ひたすら前向きになれる曲や、切ない曲など、音楽の幅がとても広いのがDREAMS COME TRUEだ。僕自身、最近は洋楽に傾倒気味だが、J-POPの中でドリカムの、特にこの3曲は外せない。30年も前の曲だが、全く色あせることはない。YouTubeにはあまり載っていないみたいだが、気になった人は是非CDを借りたり、サブスクリプションで聴いてみてはいかがだろう。

4畳半で満たされた大学時代

退職まであと1週間。退去へ向けて部屋の掃除をしていると思い出すのが、大学時代に住んでいた学生寮だ。

 

その寮は9畳の2人部屋を、4畳半の1人部屋に改築したもので、設備は机、トイレ、ベッド、ガスヒーター、ミニキッチン、洗面台。風呂は共用。入寮した日はその狭さにびっくりした。

 

しかし、住めば都とはよく言ったもので、手を伸ばせばあらゆる場所に手が届くそのコンパクトさが気に入った。掃除もしやすく、暖房もすぐに効く。寮の友達も、狭さに文句を言う者はあまりおらず、むしろその狭さの中でどれだけ快適な部屋を作れるかを工夫していた。

一時期寮の中で流行ったのが、ベッドを解体してラグとコタツを置けるスペースを作るというもの。これで4人くらい集まることができ、よく鍋をやった。

 

一番最初にできた友人は、学部やサークルよりも、寮の友人だった。自治寮であったため、寮運営は自分たちでやらなくてはならず、自然と寮生同士の距離は縮まっていった。時には一人になりたいときもあったが、優しい先輩や意地悪な(?)先輩と、個性豊かな同級生に囲まれての生活は、にぎやかで、寂しさを感じることはなかった。

夏にはけんじワールドという屋内プールに行き、クリスマスにはパーティーをやり、2月には恵方巻を作ったこともあった。講義の課題が分からなければ誰かの部屋を訪ね、料理が出来たら誰かにおすそ分けもしたりした。

凍てつく寒さの真冬の岩手でも、4畳半の寮生活は暖かかった。

 

就職してから、8畳一間での一人暮らしが始まったが、一人ぼっちの環境と、妙に広く感じるこの部屋に、少し寂しさを覚えた。それをごまかすために、モノをいろいろ置いたりしたが、空しくなっていくだけだった。

 

そんな生活も早4年。退職して木工の勉強を始めると決めたとき、アパート暮らしではなく、シェアハウスで暮らすことを選んだ。

あの大学時代のように、気の合う仲間と、一つ屋根の下で、時に一人で、時に助け合いながら過ごしていければ最高だ。

 

18歳のあの頃、単身見知らぬ土地で、手に持てる荷物だけを持って入寮したあの日は、不安と緊張でいっぱいだったが、心のどこかではワクワクしていたのを覚えている。

 

シェアハウス入居、新生活の始まりまであと1週間。今は、もう一度大学生活が始まるような、少し浮かれた気分で日々過ごしている。さすがにその部屋は4畳半ではないが、8畳の部屋でも満たされる生活が待っているはずだ。

被災地との適切な距離感

昨日に引き続き、相馬双葉地域を訪れた感想など。

 

避難指示解除で、ようやく復興のスタートラインに立てた相馬双葉地域。

 

被災地内で被害の大きさを比べてしまうのは不謹慎かもしれないが、自信と津波の被害に加え、原子力災害のあった地域は、正直言って被害のレベルが違う。

 

僕は石川郡から川内村を抜け、常磐自動車道常磐富岡IC」へ向かった。付近で信号待ちをしていた時に道路標識で見かけたのは「夜ノ森駅」の文字。2020年3月10日に避難指示が解除された場所だ。

せっかくだから、見に行ってみようと思って、常磐富岡IC入り口を通り抜け、夜ノ森駅へ向かった。先行する一般車両もいたし、大丈夫だろうと思っていた。よく晴れた、気持ちのいい天気だった。

 

すると、道路わきの待避所スペースに設けられたプレハブハウス、そこで道路誘導員の方が立っているのを目にした。

「スクリーニング場」を初めて目にした瞬間だった。

 

帰還困難区域へと向かう道路の途中途中には、「スクリーニング場」と呼ばれるプレハブハウスが設置されており、一時帰宅の際はで受付をし、防護服を着用の上、9:00から16:00の間に戻り、再びスクリーニング場で持ち物等の線量検査を受けなければならない。JR常磐線夜ノ森駅とそこへ通じる県道、町道は避難指示が解除されたが、周辺の住宅地等はまだ解除されていない。先行していた一般車両は、一時的に自宅へ戻られる方の車だったのかもしれない。

 

このスクリーニング場を通り過ぎ、帰還困難区域方面へと向かったが、区域へと達する前に引き返した。

放射線量に不安を感じたわけではない。自分自身が「悪質な野次馬」かのように感じてしまったからである。

 

現地では、被災された方々や、現地で働く作業員の方々、それを支える行政の方々など本当にたくさんの人が震災以前の生活を取り戻すために奮闘している。自分は被災者でもないのに、復興に向けた現状を知りたいという欲に駆られて、この地域に冷やかしのように踏み入ってしまった。そう感じたのだ。

 

ほかの被災地も含めて、生活基盤が整い、あとは以前のように観光客が来てさえくれれば・・・というような地域には、積極的に訪れてお金を落とすことで支援をしていければと思う。それは間違いない。

 

しかし、避難指示が解除されたばかりの地域は、観光客以前に、まずは自分たち自身の生活を取り戻すところから始まる。しかも、史上最悪と呼ばれる原子力災害と呼ばれる、解のない問題に手探りで立ち向かっている。

改めて言うが、事故後9年がたって、ようやくスタートラインに立ったのが現状なのだ。

 

被災者でない僕たちができること、それは被災地の現状を知り、そこから何かを感じ、未来に生かすこと。でも、復興の段階に応じた、被災地との適切な距離感があることを知った。

 

この地が再び、住民以外の人も受け入れる余力が付いたとき、また改めて訪れようと思う。それまで、違うアプローチで知ること、発信することを続けていこう。

 

夜ノ森駅周辺の避難指示解除のニュースで、そこには美しい桜並木があることが分かった。富岡町を訪れてみたい理由が、一つ生まれた。

 

次回は、JR常磐線の9年ぶりの全線開通から見る、電車のある風景について書いてみる。

安全だから避難指示解除している

以下の文章は、避難指示が解除された地域の放射線量は十分安全な値である、ということを、僕の主観で書いたものである。

断っておくと、放射線健康被害に関するデータの蓄積はまだまだ十分でなく、数少ない前例から推定するしかないのが現状である。

しかし、僕自身は、現時点で示されているデータはある程度信用してもいいと思っているし、それを基にして前へ進むことが、人類が問題を解決する方法だと思っている。「巨人の肩の上に立つ」ということだ。

被災地は、解決方法のない問題に直面しているという現実を、まずは理解していただきたい。

 

 本題に入ると、本当に当たり前のことなのだが、放射線量が基準値まで下がったから、避難指示が解除されたのである。各地のモニタリングポストの値は極めて低い数字ばかりであった。

 たとえば、2020年3月10日に避難指示が解除された、富岡町のJR常磐線夜ノ森駅周の空間線量は0.27μSv/h(2020年3月19日15時時点・夜ノ森駅前南集会所)。

 極端な例を示そう。この地点に24時間365日滞在するとした場合、その年間被ばく量は

0.27×24×365=2,365μSv≒2.4mSv

加えて、日本で生活している場合、誰でも年間2.1mSvの自然被ばくがあるという。

これを加味しても年間4.5mSvだ。

 

ここで、国が示す避難指示解除の条件は、以下の通りとなる。

(環境省HPより https://www.env.go.jp/chemi/rhm/h29kisoshiryo/h29qa-09-23.html)

①推定年間被ばく量が20mSv以下と見込まれる。

②インフラや公共サービスがおおむね復旧している。

③県、市町村、住民が十分に協議する。

 

①の年間20mSvという数字を大きく下回っているのがお分かりだろうか。

ちなみにこの避難指示の基準となる値は、20mSvから100mSvの間で国が定めると国際的に取り決められている(ICPR勧告)。日本の基準値は、世界で最も厳しい。ちなみに年間20mSvとは、先ほどの24時間365日滞在の計算方法で行くと、約2.3μSv/hに相当する。

 

「いやいや、年間20mSvが安全という根拠は何!?」という声も聞こえてきそうだ。これはごもっともである。

ぶっちゃけると、根拠をはっきりと言えるほど、科学的因果関係が証明されていないのが現状だ。

でも冒頭に述べた通り、原子力災害によるデータの蓄積はあまりにも少なく、完璧な根拠は存在しない。それでも、僕たちは先人の積み重ねという偉大な遺産を利用して、今の自分たちの生活と天秤にかけて判断していくことが出来るし、それしか判断材料はない。原子力災害とは、未知との戦いなのだ。

 

そのうえで、以下のURLから「各地方 環境放射能測定結果」を見ると、年間20mSv、つまり2.3μSv/hに相当する数字は、避難指示解除された地域には全く見られないことがわかる。たいていが、0.何とかμSv/hという数字で、そもそもの数字の次元が違うのだ。20mSvの安全性の根拠が乏しいとしても、もう十分安全と言っていいのではないか。

 https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/ps-kukan-monitoring.html

 

放射性物質に関する「ものさし」を一つ提供しよう。半減期というものがある。

放射性物質は、放射線を出すことで安定的な物質になっていく(=安全になっていく)。このようにして、放出する放射線の量が初めの半分になるまでの時間を、半減期という。

つまり、長期的には放射線の量は何もしなくても減っていくのだ。夜ノ森駅周辺の0.27μsV/hという数字はこの地点で取りうる最大値であり、ここから下がっていく一方である。

 

具体的には、原発事故で放出された放射性物質の大勢を占めるのが「セシウム134」と「セシウム137」だ。

セシウム134の半減期は約2年、セシウム137の半減期は約30年。つまり事故から2年たった時点でセシウム134がまずガツンと減った。さらに2年たてばまた半分、さらに2年でまた半分・・・セシウム134は限りなく減少した。

セシウム137はまだまだだろうが、減っていくのは科学的に間違いない。しかも、この自然減に加えて、汚染土壌の剥ぎ取り、つまり「除染作業」によって放射性物質をどんどん減らすことが出来た。

(この土壌がどこへ行くのかは・・・↓)

monono-aware.hatenablog.jp

 

・・・長くなってしまったが、要するに、放射性物質の量は、常に減少しており、下がり目しかないということだ。 

 

さらに、もう一つものさしを。

1回の医療用CT検査の被ばく量は5mSv~30mSvだ。

繰り返す。5mSv~30mSvだ。

(国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構HPhttps://www.qst.go.jp/site/qms/1889.html)

 避難指示の解除された富岡町夜ノ森駅周辺で24時間365日野宿することで被ばくする量を、1回のCT検査で優に上回るのだ。

福島をいまだに汚染された場所、危険な場所と思っている人は少数派になったが、まだ一定数いることだろう。そういう人たちはCT検査のほうを恐れた方がいい。

 

こういった数字やものさしを総合的に勘案すると、上記の夜ノ森駅周辺の、自然被ばくを加味しても年間4.5mSv(しかも24時間365日そこにいるというありえない条件下)という数字は、復興のスタートラインに立つには十分安全な値だといえるだろう。

 (何なら、この場所で僕自身が寝泊まりして証明したっていい。地域の迷惑にさえならなければ。)

 

問題は、復興に向けた条件が厳しいということだ。これについては次回。

福島にいない、という機会損失

相馬・双葉地域を訪ねてみた。ほかにも、両親から福島の現状について聞いたりして、新たな発見があった。というか、発見が多すぎて少々混乱している。福島や原発に関する光と闇みたいなのもいろいろ分かったし。

 

とりあえず、自分の中で確信できたことは「福島にいないこと自体が、重大な機会損失になっている」ということだ。

 

いくら情報通信技術が発達しても、福島県外で得られる情報には限りがある。そもそもマスメディアが伝える情報は、だいぶ加工されているし、真実と嘘が入り混じった質の悪いニュースが溢れかえっているのが現状だ。そんな状況で、真実を伝えるニュースは少数派になり、かえって怪しいと思われてしまうのがオチだ。いつの時代も、パイオニアはマイノリティで、評価されるのは世界が変わった後だ。

 

だから、被災地の真実は、県外の人には伝えきれるはずなどないのだ。

真実は伝わらず、なぜかフェイクニュースはすぐに広まる。もうめちゃくちゃだ。

 

自分の予想通り、3月11日を過ぎた瞬間、福島と原発に関するニュースはほとんど見かけなくなった。次に報道が盛り上がるのは、1年後だろう。

monono-aware.hatenablog.jp

 

 

しかし、福島をめぐる情勢は、24時間365日動き続けている。全国規模で報道されなくても、福島県民、いや全国民にとって重大が出来事がたくさん起きている。

 

福島を外から見ることは大切で、自分にとってのこの先2年間はその時間になる。しかし、福島に住み、福島で生きることでしか得られない情報が多すぎる。百聞は一見に如かずというのは本当で、実際に足を運んで、自分の目で見て感じたことこそが、本当の情報だ。だから、自分は福島で生きたい。福島で生きて、真実を知りたい。メディアが加工した情報にだけお金を出すのではなく、自分の足でも情報に向かっていきたい。

 

今回相馬・双葉地域を訪ねて感じたことをここで発信することに、どれほどの意味があるのか、その自信すらなくなってきた。それでも、一人でも多くの人の考え方に変化が起きるきっかけになれば幸いだ。

 

次の記事から、少しずつ書いていくことにする。

相双地域へ行ってみる

今日から福島に来ている。

短い期間ではあるが、より福島のことを知ってから、岐阜へ向かおうと思う。

 

福島県には59の市町村があるが、まだ行ったことがない市町村も多い。

自分の中で、「行ったことがある市町村」とは、次のいずれかに当てはまる市町村である。

1)観光をしたことがある(例えば登山も含む)

2)イベントに参加したことがある

3)チェーン店以外で、買い物をしたことがある

つまり、通過しただけでは行ったことにはしていない。

「あそこの〇〇という店は美味い」とか「あそこの△△という場所はとてもきれい」とか、自分の実体験をもとにその市町村について語れるかどうかが基準だ。

 

この基準で言えば、行ったことがない市町村は以下の通りだ。

 

会津地方(会津北部・中部)(13市町村中3町村)

柳津町会津坂下町湯川村

 もう少しでコンプリート!

 

会津地方(4町村中0町村)

 コンプリート!大好きな地域だ。

 

中通り北部(8市町村中5市町)

 国見町桑折町伊達市、川俣町、本宮市

 なかなか行けずに申し訳ない!

 

中通り中部(12市町村中1町)

 小野町

 もう少しでコンプリート!

 

中通り南部(9市町村中3町村)

 鮫川村、塙町、矢祭町

 もう少しでコンプリート!

 

相双地方(浜通り北部) (12市町村中10市町村)

新地町、相馬市、飯館村南相馬市浪江町葛尾村双葉町大熊町富岡町川内村

 全然行けてません・・・

 

いわき地方(浜通り南部) (1市中0市)

 コンプリート!といってもいわき地方はいわき市しかないけど!

 

こうしてみると、地元である中通り中南部と、特に豊かな自然と名峰のある会津地方の制覇率は高い。

一方で、地元から遠い中通り北部と、相双地方はあまり行けていない。

 

特に沿岸地域である相双地域。津波原発事故による被害が甚大で、いまなお復興の道半ばである。一部地域は、帰還困難区域に指定されている。

☆最新の帰還困難区域・避難指示が解除された箇所はこちら(福島県HP ふくしま復興ステーション(復興情報ポータルサイト))

https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/list271-840.html

 

そして、この地域の現状に対して、恥ずかしながら僕はあまり理解できていない。理解できていないのに、このブログで福島の未来や原発についてあーだこーだ語っているのである。自分で自分が情けなく感じる。

 

福島について、より詳しくより正しく発信していくために、自分が福島のために何ができるかを見つけるために、この機会に相双地域を訪れてみようと思う。

 

とりあえず今言えることは、相双地域には課題が山積しているが、暗いニュースばかりではないということだ。困難に立ち向かい、前を向いて進む人たちがたくさんいる。

 

この連休で全ては行き切れないと思うが、マップを埋める旅に出るとしよう。

サラダボウルではなく、るつぼ

今の職場(行政)は、完全週休2日制。一般的にみれば、だれもが羨む好待遇だろう。

有休を取りやすい環境だったこともあって、僕も初めのうちは大いに利用し、満喫させてもらった。

 

しかし、入って2年目、3年目になり、大きな仕事が任せられるようになるにつれて、だんだんありがたみが薄れてきた。休日になっても、仕事のことが気になって頭から離れないのである。

 

一般的に休日とは、仕事のことを忘れて思いっきりリフレッシュする時間のことを指すだろう。しかし、自分には、仕事とプライベートをはっきりと分けることは出来なかった。

 

金曜の夜が唯一気が休まる瞬間で、日曜日はもちろん土曜日でさえ、仕事のやり残しが気になって、月曜に何をやるかを整理してばかりいた。そのため、趣味に没頭することもあまり出来なかった。

そんなの気の持ちようだと言われることもあった。でも、自分は生まれつきそういう人間なのだ。今更この性格を変えることはできないだろう。というか、今では変える必要もないと思っている。

 

どうせプライベートの時間も仕事のことを考えてしまうのならば、ずっと考えていても飽きないことを仕事にするのが向いていると気づいたのだ。

 

かつて多民族国家であるアメリカは「人種のるつぼ」と呼ばれていた。しかし、実際は全員が溶け合って一つの存在になっているのではなく、一人一人が個性を尊重し合い活躍していることから、「人種のサラダボウル」と呼ばれるようになった。

 

しかし、自分の中で仕事と趣味は、「サラダボウル」のように独立共存していると言うよりむしろ、「るつぼ」のように混じり合っているのだろう。そしてそれが生き甲斐を形成している。

 

よく、仕事と趣味は分けろと言うが、仕事と趣味が入り混じった生き方が向いている人だっている。4月からは、今の生活より休日は確実に減るだろう。収入も減る(というかしばらくゼロになる)。それでも、職人を目指して生きることで、自分の人生の満足度は上がると予想している。

 

カネは、何かを手に入れるための手段でしかない。たとえカネがなくても、欲しかったものさえ手に入ればいい。時間もそうだ。僕は時間が欲しいんじゃなく、時間を消費して何かを手に入れたいだけだ。

 

自分が欲しいものとは何かを考えたとき、それは労働をお金に変換するプロセスを経なくても手に入るものが多いなと気づいた。むしろ、お金じゃ手に入らないモノも多い。

 

経済的に、物質的に満たされても、心まで満たされるとは限らない。僕は、循環資源である木を使って、社会に何かをもたらしたい。

 

人生を精神的に豊かにしようというのが、僕の働き方改革であり、生き方改革だ。