もののaware

飛騨にありて福島を思う

伝統と古道具と合理性

最近、日本の伝統や古道具について考えることが増えた。

伝統が消える理由の一つが、余裕がなくなったからだと思っていて、裏を返せば伝統を継承していったり楽しんだりすることには相当のエネルギーが必要なのだろうと感じる。成長のさなかにいると、余裕を失いがちだ。伝統の維持は、合理性を求める社会において、非合理的だとみなされる場面が増えたかもしれない。

 

このように、今や合理的という言葉は負の意味で用いられることが多くなってしまったが、本来はそうではなく、「理にかなう」と言いかえれば印象もだいぶ変わると思う。

 

そもそも道具とは、常に合理的だった。厳しい環境下で生き抜くための知恵の結晶だった。元来、厳しい環境であった地方において、人は道具を生み出して生き抜いてきた。ある道具が消えるのは、新たな道具の登場で相対的に合理的でなくなったからにすぎない。

 

昔に比べてモノがいきわたりつつある今、少しづつ生活に余裕が戻りつつあると感じている。伝統や古い道具にいつ目が向けられてもいいように備えておきたい。

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高山市の宮川朝市の通りにて