もののaware

飛騨にありて福島を思う

伝統と古道具と合理性

最近、日本の伝統や古道具について考えることが増えた。

伝統が消える理由の一つが、余裕がなくなったからだと思っていて、裏を返せば伝統を継承していったり楽しんだりすることには相当のエネルギーが必要なのだろうと感じる。成長のさなかにいると、余裕を失いがちだ。伝統の維持は、合理性を求める社会において、非合理的だとみなされる場面が増えたかもしれない。

 

このように、今や合理的という言葉は負の意味で用いられることが多くなってしまったが、本来はそうではなく、「理にかなう」と言いかえれば印象もだいぶ変わると思う。

 

そもそも道具とは、常に合理的だった。厳しい環境下で生き抜くための知恵の結晶だった。元来、厳しい環境であった地方において、人は道具を生み出して生き抜いてきた。ある道具が消えるのは、新たな道具の登場で相対的に合理的でなくなったからにすぎない。

 

昔に比べてモノがいきわたりつつある今、少しづつ生活に余裕が戻りつつあると感じている。伝統や古い道具にいつ目が向けられてもいいように備えておきたい。

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高山市の宮川朝市の通りにて

地域再生シンポジウム2021 in 飛騨 個人メモ

地域再生シンポジウム2021 in 飛騨

広葉樹活用による地域再生~いま地域に求められること~

 

シンポジウムは都竹市長の、「地域おこしとは地域の宝探し」の言葉に始まった。

 

1.基調講演「持続可能な広葉樹林業の経済性を考える~針葉樹と同じ土俵で考えてみた~」

・地域にある広葉樹のスケールや蓄積に応じた用途・販売ルートの開拓が必要。

・製材品の価格低下を、立木価格の低下によって吸収してきた。

・土地の生産性に着目して、経済性を評価⇒その指標が、連年成長量(MAI)。

・広葉樹のMAIはおよそ3.5m3/年ha

・試算① MAI、用材価格、チップ価格、歩留まり、収穫林齢のパラメータを一定の値に仮定した場合(僕の手元に具体的な数字はありますが、メモなので正確性に欠けるため伏せます)、チップ:用材比率=6:4までは赤字、5:5から黒字化の可能性⇒用材比率を上げるべき

・試算② ①の条件から、MAIを変数に取る。チップ:用材比率=7:3とした場合(より現実に近い比率。実際は用材比率はもっと低いかもしれないが・・・)、MAIが5m3/年haまでは赤字、MAIが6m3/年haから黒字化の可能性。⇒地力のある箇所で広葉樹林業を行うべき

・試算③ ①の条件から歩留まりを変数にした場合、歩留まり50%だと赤字、80%から黒字化の可能性。⇒歩留まりを上げるべき

・騙されてはいけないのが、広葉樹は針葉樹と比べて用材単価は高くとも、林分単価は低いこと。

・材積を林齢で除して、地域のMAIを把握してみよう。

 

2.テーマセッション①【森づくり】

 テーマ「皆伐に頼らない持続可能な広葉樹林業の可能性」

飛騨市の取り組み⇒育成木施業:将来木を集中的に育成する。針葉樹林業が面的な施業なのに対して、広葉樹施業は点的。

・若齢林ほど有効で、逆に高齢林では効果は薄いとされる。

・比較的新しい考え方で、賛否両論あるのは承知の上。チャレンジングスピリットで続けていきたい。

滋賀県東近江市の取り組み⇒天然更新:皆伐後、先駆種が繁茂し、その下に有用広葉樹が生えてきている

・下刈り等、保育行為の必要性を感じるが、広葉樹保育行為が補助金の対象外なのが残念なところ。

・販売部門では、中径木の少量・多品種を木工家等へ販売

・ビニールハウス乾燥を行っているが、不十分とのこと。

 

3.セッション②【ものづくり】

 テーマ「ものづくりと地域づくりの可能性」

・オークヴィレッジの取り組み

⇒Neo Woods:生産者、材木屋、木工家が連携した、エシカルな材料調達とマッチングを図る

岐阜県立森林文化アカデミーの取り組み

⇒エゴの木プロジェクト:和傘の原料の一部となるエゴノキを調達する。かつては炭焼き職人がエゴノキの調達を担っていた(炭焼き師がある種の地域材供給のコーディネーターを担っていた)が、燃料革命により炭焼き職人が消えたのと同時に、エゴノキの供給も絶たれた。

・当事者たちではプロジェクトの立ち上げは難しいため、伴走者が必要。しかし、助走をつけてあげることができたら、そこから自走するのは紛れもなく当事者本人。

 

4.セッション③【仕組みづくり】

テーマ「広葉樹の価値を高めるために求められる流通」

・広葉樹はその多様性から、製材品の規格化がしにくい、というかしていない⇒その分マーケットの多様性があることを示している。

・従来の流通は、川上・川中・川下で分断、さらに川中の中ですら分断。

飛騨市の取り組み:そこで、川上から川中までをドッキングした流通へ転換。中間土場を設け、そこで選木仕分けを行う⇒サプライチェーン全体で川下のニーズに対応する。

・価格面・ソフト面両面で、ホワイトオーク等の価格高騰中の輸入材の十分立ち向かえる見込み。

 

5.セッション④【広葉樹による地域再生

 テーマ「広葉樹を活かすために地域に求められること」

新潟県入広瀬の大白川地区:1970年代からブナの間伐を実施。

・おそらく自然保護団体の台頭著しい時代。周りからの批判も多かったことだろう。しかし、大白川生産森林組合の当時の組合長の言葉「ブナに光を当てて健全な森をつくりたい」の言葉は、今では多くの人に理解される考え方。それを理解できる僕らは、その意思を途絶えさせてはならないと思う。

 

6.総括

・広葉樹にかかわるすべての分野を俯瞰すべき。厳しい現実はあるが、だからと言ってできない理由探しはしないこと。

・自分の専門「以外」の場に積極的に立つことが、広葉樹利用のために必要。

 

ふたりのDivaと「火の中、水の中」

日本語においては、困難に立ち向かうとき、「たとえ火の中水の中だろうと・・・」といった言い回しが使われる。火と水はいつの時代も恐怖や困難の象徴だったのだろう。

そしてこの表現は、どうやら日本だけのものではないようだ。

例えば英語での表現方法の1つが、「through the +~」で、「~の中で」という意味なる。そして奇しくも二人の偉大なdiva(歌姫)がこのようなタイトルの歌を歌っている。今回は心を震わせ、元気をくれる、そんな「たとえ火の中水の中」な2曲をご紹介したい。

 

1.Through The Fire / Chaka Khan1984年)


www.youtube.com

パワフルかつソウルフルな歌声で「火の中」を表現しているのは、「R&Bの女王」チャカ・カーン。「Through The Fire」は、「I'm Every Woman」や、プリンスのカバー曲「Feel For You」と並ぶ彼女の代表曲の一つで、ゆったりとした情熱的なバラードだ。彼女の声は、まるで全身が一つの楽器であるかのようだ。

Through the fire

Through whatever come what may

For a chance at loving you

I'd take it all the way

Right down to the wire

Even through the fire

たとえ炎の中だろうと

何が待ち受けていようと

あなたを愛せるなら

すべて受け入れる

最後の最後まで

たとえ炎の中だろうと

Right down to the wire とeven through the fire で韻を踏んでいるのが気持ちいい。You Tubeにはたくさんのカバー動画が上がっているが、しっとり調のカバーが多く、原曲のようなガツンと来る声は少ない。もちろん僕はチャカ・カーンの伸びやかでパワフルな声が好きだ。声もストレートなら歌詞もストレート。40年近く前の曲が今でも愛されているのは、普遍的な価値観を歌っているからだろう。

 

2.Through The Rain / Mariah Carey(2002年)


www.youtube.com

ささやくような声でしっとりと「水の中」を歌っているのは、7オクターブの歌姫ことマライア・キャリー。日本では「恋人たちのクリスマス」でおなじみだが、ブラックミュージックをルーツに持つ彼女は、ポップスだけでなくR&Bのヒット曲も多くリリースしてきた。

その中でも「Through The Rain」は、彼女の精神的・肉体的な低迷期に発表された、隠れた名曲だ。

I can make it through the rain

I can stand up once again on my own

And I know that I am strong enough to mend

And every time I feel afraid

I hold tighter to my faith

And I live one more day

And I make it through the rain

この雨だって乗り越えられる

自分の力でもう一度立ち上がれる

そしてそれだけの強さも持っていることも分かってる

恐れを抱いて臆病になるときには

この信念をより強く抱いていこう

そうやって一日、一日、生き延びていこう

乗り越えられない困難はないのだから

 

この曲の中で、rainとは「困難」のこと。make it through + 名詞 で、「~を乗り越える」という意味の構文になるので、厳密には「たとえ火の中水の中」という意味にはならないが、逆境に立ち向かうという意味では最適だ。 チャカ・カーンのThrough the fire とは対照的なウィスパーボイスで、つらい状況にあるマライア・キャリーの心境を吐露しているかのような曲調だが・・・そこはやはりマライア・キャリー。最後の大サビでは彼女らしさが爆発する。

 

ふたりの歌姫が表現する、ふたつの「Through」、気になった方は、ぜひともチェックしてみてくださいね。

 

Through the Fire

Through the Fire

Through the Rain

Through the Rain

  • provided courtesy of iTunes

 

白河ラーメンこそラーメン

ここ高山市には「高山ラーメン」というものが存在する。しょうゆベースのスープに低加水の縮れ細麺を組み合わせたあっさりラーメンだ。

今日も仕事終わりに、高山ラーメンを食べに行った時のこと。休日はどこの高山ラーメン屋も観光客でごった返すが、僕の行きつけの店は店主一人で切り盛りしていて、ねらい目である。

18時過ぎに入って注文したしばらく後、別のお客さんが入ってきたところで「ごめん今日は売り切れです」と店主。そこで、同じような体験を昔したなと思い出した。

 

僕は生まれてこの方、福島県白河地方の「白河ラーメン」で育ってきた。しょうゆベースなのは高山ラーメンと一緒だが、麺は多加水で中太の縮れ麺、しかも安くてボリューム満点(最近の新興白河ラーメン屋はお高い傾向にあるが)なのが特徴。福岡県民がラーメンといえば豚骨ラーメンなのと同じで、僕にとってラーメンといえば白河ラーメンだ。

(ちなみに福島なら喜多方ラーメンの方が知名度があるが、白河ラーメンとは似て非なるものである。見た目は同じだが、甘いのが喜多方、塩辛いのが白河である。)

小さい頃は月に1回、白河へ髪を切りに行った帰りの夕食は、決まって白河ラーメンだった。そして行く店は大体決まっていて、「あずま食堂」か「菊忠」の2択。思い出したのは、「あずま食堂」の思い出だ。

あずま食堂は白河ラーメンの店の中でも1、2を争う人気店で、駐車場にいっぱいの車と行列は見慣れた風景だ。しょうゆラーメンはもちろんおいしいのだが、僕が頼むのは「赤味噌タンメン」だった。

 

その日の夜も、家族4人であずま食堂を訪れた。しかし父親が店主と話したところ、スープが4人分無いと言われたようで、その日はあきらめて「菊忠」に入った。

菊忠は現存する白河ラーメン屋の中で2番目に古い、歴史あるラーメン屋だ。こちらはすんなり入れて、おいしく味噌ラーメンをいただいた(気がする)。

このころから、僕の中で「あずま食堂」は人気店でなかなか入れない店、菊忠には大変失礼な話だが、菊忠はいつでも入れる安心感のある店というイメージが出来上がっていった。

ちなみに大人になってから気づいたのだが、菊忠も大変な人気店で、最近は店舗をリニューアルし昔以上に老若男女に人気のようである。レジ横のペコちゃんキャンディーをもらって帰ったのが懐かしい思い出である。

 

最近は福島に帰るたびに、2件以上は白河ラーメン屋をめぐっている気がする。どこも期待を裏切らない美味しさであり、やっぱりラーメンといえばこれだよなと思わせてくれる。

できれば家族と一緒に白河ラーメンを食べに行きたいのだが、ここ2年はコロナウイルスの影響でなかなか外出できなかった。そこでお世話になり始めたのが、西郷村の「みもり製麺」だ。

みもり製麺は麺の卸し販売を行っているほか、家庭向けにお持ち帰り白河ラーメンも販売している。これがとても美味しく、高山に戻るときに買っていくようになった。

 

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みもり製麺のラーメン。自家製のチャーシューとメンマもおいしい。

住宅街にあって、ペンギンのキャラクターがマスコット。母曰く「アマビエ様みたいだね」と好評。近隣にお住まいの諸兄諸姉はぜひ訪れてみてはいかがだろう。

 

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アマビエ(?)ペンギン



ラジオパーソナリティーのアイドル化

何かにつけて作業用BGMとして音楽やラジオを聴く人は多い。僕もラジオを聴きながらモノを作ったりする。

ここ半年くらいは、常にFM AICHIの平日番組を聴きながら過ごしている。いわゆるTOKYO FMから配信される全国番組ではなく、FM AICHIの独自番組だ。朝6時のONE MORNING AICHIから始まって、MORNING BREEZE、DAYDREAM MAGIC、AFTERNOON COLORS、EVENING STREETと19時半まで続く。

これらの番組の特徴は、各番組ひとりのパーソナリティーが音楽8割トーク2割で進めるところにある。ふつう多くのFMラジオが、8割方パーソナリティーの私生活の出来事や、視聴者からのお便りを読み上げて、2割くらいが音楽という構成と思われるが、FM AICHIはそうではないところが気に入っている。

かつては地元福島の情報を知りたくて、radikoのプレミアム会員になってふくしまFMを聴いていたことがある。しかし、パーソナリティーやどこの誰かもわからない視聴者の私生活を聞かされたところで、何も面白くないということに気づいた。パーソナリティーがメールを読み上げている時間は、パーソナリティーと送り主の2人だけの時間になるわけだから、つまらない。また、自分の送ったメールが読まれれば送った方はそれは嬉しいだろうが、読まれなかったら悔しい気持ちが残るだけだろう。まるでアイドル番組みたいだ。ラジオとはそういうものかもしれないが。

一方でFM AICHIの平日プログラムは、音楽に始まり天気予報、音楽2曲、交通情報、音楽2曲、快適生活ラジオショッピング、音楽2曲と、聞きたくない情報がほとんどない。視聴者お便りもパーソナリティーの私生活情報もゼロ。しかも、流れる音楽はほぼ'80年代から'00年代前半の邦楽・洋楽で、自分のツボに刺さる曲ばかりなのもうれしい。ノリノリで作業がはかどる。

中京圏を離れても、今度はradikoプレミアム会員でFM AICHIを聴くだけの価値がある。ああ、理想のFMラジオはここにあったのか!

Heaven Is a Place On Earth

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  • ベリンダ・カーライル
  • ポップ
  • ¥255

ハチドリのひとしずく

2か月ほど前の話だが、父がワクチン接種をした後、頭痛と嘔吐により病院で点滴を受ける羽目になった。ここ数年病院にお世話になる機会が増えてきてたこともあり、寄る年波には勝てないのか・・・といった具合である。

しかしまあ、昔から遊びまわることもせず、酒はほんの少し、たばこは全く吸わない父でも、倒れるときは倒れるのかと思うと少し悲しい。中には不摂生でもピンピンしている人もいるというのに。

同じようなことを、今年の夏の気候についても感じた。記録的な日照不足になった今年の夏であるが、温暖化や異常気象が人間の経済活動とどれほど因果関係があるかは議論の余地があるのはさておき、少なからず影響は与えているだろうと思うと、なんだかあほらしくなってくる。

これでも、環境問題には昔から関心はあり、自分の思うエコロジーな心掛けはしてきたつもりだ。しかし自分一人がいくら頑張ったところで、自然や気候に良い変化をもたらすのはさすがに難しいと感じてしまう。

それでも、かつてノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイ氏の「ハチドリのひとしずく」が、自分を勇気づけてくれる。南米エクアドルの先住民に伝わるこの昔話では、山火事が起きた時、多くの動物たちが逃げようとする中、ハチドリはその小さなくちばしで一生懸命水を運んで火を消そうとする。それを見た動物たちは、なぜそんなことをするのか、無駄なこと、どうせ火を消せはしないと言った。それに対しハチドリはこう答えた。

「私は自分にできる最善の行動をしているだけだ。」

この世には、環境問題に限らず、ハチドリのようにわずかな水であろうと運び続ける人たちがいる。自分たちの行動が必ず変化をもたらすと信じ動き続けている。それを思うと、彼らの働きを無下にするであろう方向には動けない。

今年の冷夏が、人間のせいなのか、地球自身のそういう周期なのかは分からない。分からないなら分からないなりに、可能性のある行動をとるのが文明人のあるべき姿だ。口を出すだけの傍観者にならないよう生きていこう。

くちばしにチェリー

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  • ¥204

真珠を売る高島屋

家にテレビがないので、テレビCMを見る機会がほとんどない。だからたまに実家に帰った時にテレビを見ると、今はこういうCMやってるんだ~と、大げさだがタイムスリップしたような気分になる。

時代が進むにつれて、CMは淘汰されていく。かつて福島県民にはおなじみであった「Printing(カンペチラ見)、Message」の星総合印刷や、「うちのは、東北レジャーの通信カラオケ!」の東北レジャーなど、もう一度見たいCMがたくさんある(もしかしてまだ放送されてる?)

そんな中、この前ふと引っかかったCMが、高島屋のテレビショッピングである。 特段思い入れがあるわけではない。昔から全国区でしょっちゅう流していただろうCMだ。紹介していたのは真珠のネックレス。強調するのはサイズの大きさと値段。数十秒の特に変わったところはないCMだが、違和感を覚えた。

その違和感の正体は、豊かさの指標のズレである。今や消費の指標は、所有に価値を見出す「モノ消費」から、体験に価値を見出す「コト」へ、さらには誰かと一緒に何かを生み出す瞬間に価値を見出す「トキ消費」へと変化している。全国各地で自発的参加型のアクティビティやイベントが増え、このコロナ禍でオンライン化も進み、誰かと一緒に何かをするということが一気に簡単になった。僕も最近は出歩けないかわりにオンラインでセミナーや講演会などを覗かせてもらっている。

そんな価値観が広まる中、高島屋のCMのキーワードは「大きさ」「高級」「お値打ち価格」。悪い意味で一昔前のCMだなと思わざるを得ない。せめて、真珠の産地とか、背景とかストーリーに触れてみてはどうかと思う(そもそも僕のようなタイプの人間ははなから相手にしていなさそうではあるが・・・)。

かつて豊かさの象徴的存在だった老舗百貨店の閉店が相次ぐ中、重鎮たる高島屋がこれからどんな価値観を見せて生き残っていくのか。IDC大塚家具の例を見ると、高級路線は高級路線のままいくしかないとは思う。ただ、高級路線を支持していた世代は嫌でもいなくなっていく。僕のような世代の心をキャッチする手を打つのかどうか、気にしておきたい。

一つ言えることは、現代人にとっては、きらびやかな宝石自体よりも、宝石があることで生活の何が変わるのか、何かわくわくするようなことが起きるのかが大切だということだ。繰り返すがモノよりコト、ひいては「人」である。今から40年以上前、モノの豊かさ全盛期だった頃ですらそれに気づいていた歌があった。どんなダイヤや真珠より輝くものがそこにはあった。