もののaware

飛騨にありて福島を思う

漫画「エデンの東北」から感じる、「懐かしさ」の正体

 とある漫画をご紹介したい。深谷かほるさんの「エデンの東北」という作品だ。

 

1970年代の東北の田舎町を舞台に、そこで暮らす4人家族の笑いあり涙ありの日常を描いた、1話完結の物語。はっきりと明言はされてはいないが、舞台は福島県石川町をモデルにしていると思われる。僕の地元だ。

作品中には、「今出川」や「県石(県立石川高校)」「水晶掘り」といった、石川町に関わりのある言葉が出てくる。何より、作者の深谷かほるさんも、石川町の出身だ。

 

この漫画を読んでこみ上げる感情の最たるものは、「懐かしい」という感情だ。

本来なら、1970年代に生きていなかった僕が、懐かしいだなんて思うはずもないのだが、豊かな自然の中で「吉田家」とその近所の人々が織りなす日常の風景に、心がジーンとなる。

 

そもそも「懐かしい」とはどういう感情か。僕なりの解釈は、今はもう失われてしまったものを五感で感じたときに覚える感情だと思う。

 

物語に登場する「吉田家」は、春は近所の桜の木の下でお弁当を食べ、夏は縁側でスイカにかぶりつく。秋は栗拾いやキノコ狩りをし、冬は雪ダルマを作ったり、そーっと白鳥を見に行ったりする。野菜やおかずのおすそ分けをし合い、祝言を挙げるとなれば近所総出で準備をする。

もちろん今でもこれが当たり前の地域はあるが、2020年現在、どれだけの場所でどれだけの人がこの「当たり前の日常」を過ごしているだろうか。

今でも変わらない日常、当たり前の日々ならば、懐かしいと思うことは無いだろう。懐かしさの正体とは、もう戻らない物事を寂しく思う感情なのかもしれない。

 

とはいえ、懐かしい出来事のすべてが、もう二度と戻らないことばかりではない。例えば、少年時代を過ごした友達と久しぶりに再会した時に、懐かしいと思うだろう。確かに少年時代は二度と戻ってこないが、かといってそれが切なさでいっぱいになるものとは限らない。むしろ、昔話に花が咲いて、心が躍ることだろう。

 

冒頭に戻ると、なぜ見たことのないはずの風景を懐かしいと思うのか。

今から40~50年前とは、僕の両親が幼稚園生か小学生くらいの時代だ。僕はエデンの東北を読むことで、両親が生きた風景を追体験している。両親から聞かされてきた当時の話の断片が、いつの間にか自分の中でバーチャルな田舎、石川町になっていた。だから1970年代に東北の片田舎にあった風景を見て、それを懐かしいと思い、今となっては変わってしまったことを切なく思うのだろう。

 

しかし、今の風景が悪いとは全く思わない。石川町も、福島県も、常に変化し続けている。僕にとっての日常は、いずれ誰かにとっての「懐かしい風景」になる。今を精いっぱい生きて、福島の風景の一部になれるような人生を送りたい。僕の根っこにあるのはやっぱり、「I love you and ineed you Fukushima」だ。

 

かつて東北にあった、いや、どこにでもあったであろう風景に興味がある方は是非、読んでいただきたい。自信を持ってお勧めできる作品だ。

 

ブログランキング・にほんブログ村へ