もののaware

飛騨にありて福島を思う

ノマド

良質な木を求め、山から山へと渡り歩いて生活してきた木地師という人々は、いわば森の遊牧民(=ノマド)だった。ノマドと言えば、近年は「ノマドワーカー」と言う言葉をよく聞くようになった。「ノマドワーカー」は、時間や場所に捕らわれず働く人々のことを指す。働き方改革が叫ばれる中、ノマドワーカーは新しい生き方、働き方を表現する言葉として注目されているのは事実だろう。

しかし、その語源となったノマド達の生き方が、時間や場所に捕らわれないものかというと必ずしもそうではない。むしろ、時間や場所に追われる生き方ともいえる。

モンゴルの遊牧民を例にとると、彼らは年間を通じて、季節ごとに最も適した場所へ移動を繰り返して生活している。

エサとなる草が良く伸びる夏場は、家畜を肥えさせるため盛んに放牧を行う傍ら、家畜の乳しぼりと乳製品作り、毛皮の刈り取りを行う。自分たちで消費する分に加え、これらを販売することで現金収入を得てもいる。

また冬には気温が-40度になるモンゴルでは、秋には既に冷え込みが厳しくなるため、早々に冬への備えが始まる。前述の乳製品作りや、家畜の食肉加工により食料を確保し、地形的にも寒風を避けられるような場所へと移動する。遊牧とは、作物が育ちにくい風土において彼らが生き抜くための知恵が詰まった生活様式である。本人たちがその生活様式をどう捉えているかはそれぞれだろうが、決して「のどかに気ままにゆったり」とはいかない側面もあることだろう。厳しい自然の流れに合わせて生きるとは大変なことでもある。

木地師も同様だ。彼らはお椀の材料に向くトチやケヤキ、ブナの森を主な生活の拠点とした。理想に合致する場所を見つけたら、住居の材料を現地調達して建て、沢や川から水を引く。そして周囲の木を伐りつくすと、別の山へと移っていく。もしじありょうとなる気がいくらでも手に入るのならば、わざわざ山から山へと移動なんてしたくないことだろう。でもそうせざるを得なかったのだ。

(木地師の移動については、以下の記事にまとめたのでご覧ください。)

monono-aware.hatenablog.jp

 

monono-aware.hatenablog.jp

 

こういった事を踏まえると、時間や場所に縛られないという意味で使われているノマドワーカーという言葉の意味が、少し違って見えてこないだろうか。その生き方を、周囲の変化に追われて働く時間や場所の変化を余儀なくされる生き方、と捉えるか、周囲に変化を受け入れ、柔軟に適応する生き方と捉えるかはその人次第。ただ一つ、自分にとって言えることは、「どこで」「誰と」やるかの選択は間違いなく重要だということだ。

 

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蔵出し広葉樹@ヒダクマ はプライスレス!

今日は、飛騨市古川町にある、「株式会社飛騨の森でクマは踊る」通称「ヒダクマ」さんで開催されているイベント、蔵出し広葉樹へ行ってきた。

 

蔵出し広葉樹は、普段市場に出回らないような規格外の木材や端材、珍しい形の丸太や枝などを、1g1円の量り売りで販売するイベントだ。毎月開催されており、僕は今回が2回目の参加。さらに今日は、ヒダクマさんと親しい柳木材さんの土場も見学でき、よりレアな商品を手に入れることが出来たのでそのご紹介。

 

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戦利品。一つ一つ見ていこう。

 

①スポルテッド・カシ

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スポルテッドと虎斑のコラボ。

繊維方向に入った黒い線が特徴のカシの板。このような模様をスポルテッドと言うらしい。細菌やカビの繁殖により、このような模様が生まれるようで、これを汚いと思うか、美しいと思うかは人それぞれ。僕は、カシ特有の虎斑と相まって面白い模様だと思ったので購入。まだ生木に近い状態だったので、しっかり乾燥させてから加工していきたい。

 

②トチのコブ

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コブの形状をそのままマグカップに。トチの風合いもきれいだ。

このトチのコブから、ククサを作る予定。ククサとは、北欧のさらに北部の先住民族サーメ人の間で、大切な人の幸運を願って作られるマグカップのことで、厳しい寒さの中で育つ白樺のコブをくり抜いて作られるとのこと。今回はトチで代用だが、中心の腐れの部分をくり抜けば、マグカップには丁度よさそうだ。トチのシルクのような風合いを生かして作ってみたい。

 

③緑青腐菌

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ひとまず鑑賞用。自然の妙味だ。

「ろくしょうくされきん」と読む。木材腐朽菌、つまりキノコの一種で、青銅のような何とも言えない美しさがあり、この風合いを生かした木工品はもちろん、この菌に冒された木を煮出して染め物に使ったりもするとのこと。ヒダクマさんいわく、山によく落ちているらしいので、今度からは意識して山を歩いてみようと思う。

 

それにしてもヒダクマさんの森林、木材、自然に対する造詣の深さに毎回感動する。僕もこんな風に、自然を楽しく、より身近に感じさせられるような人になりたい。蔵出し広葉樹は1g1円、それに加えて得られる知識と経験はプライスレス!

 

 

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年末

12月になり、暖房器具なしでは過ごせなくなってきた。今年は雪が多いと、周りの人が口を揃えて言うが、僕も何となくそう思っている。今年はしっかりとした梅雨があったし、ここ数年の異常な暑さが和らいだ夏を過ごせた。根拠らしい根拠はないが、きっとこの冬は平年並みには雪が降って、久しぶりに四季らしい四季を過ごせるのではないかと勝手に思っている。

 

遠くの山も、だんだんと天辺が白くなってきた。燃えるように美しかった紅葉の山々も、すっかり葉を落とした。樹幹があらわになった樹々を見ると、改めて木工品の材料は山から来るんだなと思い知る。

 

木を使って何かを作るからには、森のことを理解しておきたい。森を理解せずに木工をするならば、それはもう木でモノづくりをする必要は無いと思っている。

僕自身、大学で林学を学んだが、森のことを真に理解しているとは言えない。だからここ飛騨高山では、木工だけでなく森についても学ばせてもらっている。木工、林業、森林環境教育、木育など、その道のプロフェッショナルとも言える人たちと関わることが出来て自分は幸せだと思う。そして嬉しいことに、森や木が好きな人に、悪い人はそうそういない。

 

森林、林業、木工を軸に、何を学んで何を地元に持って帰れるか、あーでもないこーでもないと考える毎日である。最近はチェーンソーを使えるようになりたいと思っている。クヌギの1本でも伐って、ほだ木くらい作れるようにならなきゃね(福島県が、ほだ木の名産地だったのはあまり知られていない。そして原発事故以来その状況が一変してしまったことも)。

 

もうすぐ年末。8か月ぶりに帰る福島では何が起きているのだろう。何が変わったのだろう。何が変わらずに残っているだろう。帰るのが今から楽しみだ。手土産に、自分が下手くそながら作り上げている木箱を忘れずに持っていく。

 

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南会津の木地師・後編

お椀やお盆の材料となる良質な木を求め、山から山へと移り住んだ流浪の民木地師について。今回は後編。いよいよ福島県会津にいた木地師に迫る。

(前編はこちら↓)

monono-aware.hatenablog.jp

 

 

さて、南会津木地師と銘打ってはいるが、木地師誕生の地・近江から福島県会津地方への木地師の動きから見ていこうと思う。

 

1590年に豊臣秀吉により行われた奥州仕置で、蒲生氏郷という武将が会津若松城の城主となった。ここで早速木地師の郷、近江が登場する。蒲生家は代々、近江日野(現在の滋賀県蒲生郡日野町)の城を本拠としており、ここもまた木地師漆器などの塗師が多く排出される土地だった。氏郷は会津木地師塗師を招聘し、城内に住まわせ、作業にあたらせた。これが伝統工芸・会津塗りの起源と言われている。

 

しかし、やがて材料となる原木が伐りつくされると、木地師たちは周辺の山々へ移っていったという。ここから南会津への移動が始まる。

 

まず彼らは、城下に流れる湯川と言う川沿いに進み、今の天栄村湯本にたどり着く。二岐山や大白森山などの山々に囲まれ、標高も高かったこの地は、材料となる木に恵まれていたようだ(ちなみに天栄村の公式キャラクター「ふたまたぎつね」は二岐山をモチーフにしている)。

 

木地師は一つの地に留まると、里の人々と様々な取り決めを交わし、持ちつ持たれつの関係となる。具体的には、木を伐っていい範囲や樹種、伐採にかかる代金、木地輸送委託契約(木地を山中から町まで運ぶ役割はもっぱら里人が担った)など。入植者によって新たな仕事が生まれたため、里の人々にとっても悪いことばかりではなかったことだろう。こうして山と里、漆器の産地である会津若松を結ぶ交易ルートが出来上がっていった。

 

その後、湯本の木地師集団の一部が、現在の南会津町針生へと移り住んだ。この地もまた、豊富な森林資源に恵まれた地であったことは、今の南会津の山々を見れば容易に想像できる。この地ではおよそ150年から200年もの間、木地師が生活を送っていたという。最終的には、同じ南会津の高杖に定住し、ここで南会津木地師の歴史は幕を閉じる。今では、奥会津博物館で木地師の生活の一端を伺うことが出来るようだ。

 

今でも山の中には、木地師たちの墓石や彼らの作ったと思われる石仏が点在しているらしいが、ググっても詳しくは出てこない。いずれ誰からも忘れ去られてしまうのはとてももったいない。一度、木地師の足跡をたどる旅をしてみようと思う。

 

会津若松から南会津へ至るまでの道のりも、辿ってみると面白いだろう。湯川を上っていくと会津布引山に着く。風力発電風車群で有名な布引高原だ。

www.tif.ne.jp

 

初めの定住地である天栄村湯本は、岩瀬湯本温泉二岐温泉で有名ないで湯の郷。二岐山登山と併せて楽しめるだろう。

二岐山は標高1544mの双耳峰の山。かつては単独ピークの山だったが、この地にいたダイダラボッチという大男がこの山を跨ぐときに股間をぶつけて双耳峰になったとか。

www.tif.ne.jp

www.tif.ne.jp

 

南会津町針生地区には、国天然記念物の駒止湿原がある。春はミズバショウ、夏はニッコウキスゲなどの花が美しい高層湿原だ。何気に僕自身の原体験の場所になっている。この話はまた別の機会に。

www.tif.ne.jp

また、この針生と、最後の定住地・高杖はスキー場でも有名で、山奥ながらウインターシーズンには多くの観光客でにぎわう。あと高原なのでソバ畑もいっぱい。

daikura.net

takatsue.jp

 

また、前回記事で、滋賀県の当時「小椋谷」と呼ばれていた地域が木地師発祥の地と書いたが、その時惟喬親王の家臣に小椋、大蔵姓がおり、その末裔が全国にいる。この会津高杖には、「株式会社オグラ」という家具製作から住宅建築まで手掛ける会社があり、代表である小椋寿光さんはやはり代々木地師の家系だったそうだ。

森と生きることを大切にしているこのお店。一度行ったことがあるが、とても素敵な場所だった。おすすめ。

www.lc-ogura.co.jp

 

なんだか最後は本来の趣旨から外れてしまったが、木地師という職人集団とその暮らしぶり、里や町との交流については興味が尽きることが無い。会津を南北につなぐシルクロードならぬウッドルートが存在していたとは。

そもそも木を加工して作るなら、森の国福島県内の別の場所にも、彼らはいたのではないかと想像してしまう。それが近江から来た者なのか、はたまた自然発生的に生まれた存在なのか・・・これからも折を見て調べ続けてみようと思う。

 

(どなたか、南会津木地師集落について詳しい方がおりましたら、ぜひ教えてください!)

 

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南会津の木地師・前編

木地師というテーマを入り口にした記事を書いたが、その後木地師についてより深く知る機会があったので、備忘録としてまとめてみようと思う。

monono-aware.hatenablog.jp

 

改めて木地師とは・・・

手挽き轆轤(てびきろくろ)を用いて、生木からお椀やお盆などを作る職人のこと。彼らの生活は山と共にあり、良質な材料を求めて山に入り、そこの木を伐りつくすと次の山へと移り住み、その都度山中に住居を構え、里との物々交換によって生きてきたという。

木地師の始まりは平安時代ごろ、惟喬親王(これたかしんのう)という人物によるものとされている。

惟喬親王は55代天皇文徳天皇の第1皇子として生まれたが、母親がそれほど身分の高い出でなかった等の理由から皇位を継承できなかった。

その後彼はいわゆる都落ち。部下を連れて「小椋谷(現在の滋賀県東近江市・奥永源寺地区)」という場所にたどり着き、手挽き轆轤を用いた木地加工を生み出したという。ちなみに手引き轆轤は、巻物をクルクルと巻く様子から発想を得たらしい。

惟喬親王は周辺の村人たちに手引き轆轤を伝授し、やがて木地師たちは全国各地へ散らばっていった。江戸時代には、この小椋谷に木地師の総本山が設けられ、木地師たち向けに全国どこでも自由に木を伐り轆轤を挽いてよいという許可証まで発行していたという。この無敵(?)の許可証片手に木地師たちは堂々と各地の山へ入っていったようだが、現地の里の人々と対立することもしばしば見受けられたそうな。

そんな森林資源豊かな島国・日本で隆盛を極めた木地師たちであるが、明治時代になると彼らは山から降ろされてしまったという。理由としては、本格的な戸籍制度の開始、土地官民有区分による山林の国有化、手引き以外の動力による作成が可能になり、わざわざ山で作らなくても良くなったことなどが挙げられる。お椀の材料を現地調達し、山から山へと移り住む生活様式は変更を余儀なくされ、いつしか彼らは姿を消した。だが、全国各地には木地師の営みの跡が今も点在している。

僕の地元、福島県にも、木地師の足跡が残る。その一つが、南会津郡南会津町田島の針生(はりゅう)地区。次回は、南会津木地師について書いてみようと思う。

 

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ウラヤマ

先日、秘密基地と題した記事を書いたが、僕が通った児童館の裏手は、中々にワクワクする場所だった。

小高い丘になっていて、木々のトンネルや根っこの階段を手足駆使して登ると、そこには大きな石碑の鎮座する小さな広場があった。周囲をぐるりと大きな雑木に囲まれていたので、どちらかと言えば薄暗く、静かな聖域といった具合の場所だった。となりのトトロに出てきそうな場所である。

雑木の隙間からは、一面に広がる田んぼが見えた。当時は田んぼを見ても綺麗だなとは思わなかったかもしれないが、今思い出すと、それはもう見事な眺めだったと感じる。休み時間になると、表の校庭の遊具遊ぶよりも、裏手のこの場所で遊んでいた。

 

この雑木林は、僕が小学校高学年の頃に無くなってしまった。住民の憩いの場としての整備と称して、数本の樹を残してすべて伐採され、大木の根っこの階段は規則正しい丸太のステップに、草に覆われた柔らかさのある地面は、むき出しの土に入れ替わった。360度景色が丸見えの禿山になったウラヤマを見て、幼心に、これは「改悪」以外の何物でもないと感じた記憶がある。

 

子供にとって、表の開けたグラウンドも裏手のうっそうとした森も、遊び場であることに変わりはない。そしてブランコやジャングルジムだけが遊具じゃない。木登りしたり、木の実拾ったり、森での過ごし方は限りが無い。なのに、東屋がポツンとあるだけの禿山で、一体子供にどうしろと言うのか。

 

今となっては、少子化で児童館も閉館してしまった。この広場は石川町のホームページでは桜の名所の一つとして掲載されているが、桜の美しさよりも未だに禿山のままのその全貌に寂しさを覚えてしまう。

 

前回も書いたが、今の子供には、大人の目から隠れられるような秘密基地や、好き勝手に遊べるようなウラヤマは存在するのだろうか。絶対存在しなければならないという訳じゃないが、やっぱり無いと寂しいと思ってしまう。当たり前だが森や林が作り出す空間は、一度伐ったらしばらくは復活することは無い。そしてその間に、このウラヤマで遊ぶことなく卒園していった子供たちが何人もいたのだと思うと、思わずため息をついてしまう。田舎の超小規模な学校から、自然を取り上げたら本当に何も残らないだろうになあ。

 

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彦左衛門の森

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かつて高山市清見町(旧清見村)の山にも、木地師と呼ばれる、ろくろを使ってお椀やお盆などを作る人々がいた。彼らは山に住み、作った木工品を里の人々と物々交換することで生活していた。

 

ある日、木地師の一家の元に、彦右衛門という落ち人が現れた。負傷していた彦右衛門を一家は介抱し、かくまってやることにした。そして彼は、傷が癒えると一家の木地師としての仕事を手伝うようになった。落ち武者と言えど仮にも武士、刃物の扱いに長けていた彦右衛門は木地師としての才能があったようで、一家もそれを喜び、いつしか一家の一人娘と恋仲になったという。

 

しかし、一家の一人息子は、突然現れた落ち武者に、木地師の跡継ぎの座を追われかねない状況を快く思わなかった。そして彦右衛門に懸賞金がかかっていることを知ると、彦右衛門の居場所を里に知らせた。その追手から逃れるため、彦右衛門は一家の元を離れ、さらに山奥へと移り、隠れ家を作って暮らし始めた。しかし、彦右衛門も一人娘も、互いのことを忘れることが出来ず、隠れ家で人知れず逢瀬を重ねたという。隠れ家は、たくさんのミズナラの大木に囲まれた場所だった。

 

そんな彼らを再び悲劇が襲う。多雪地帯の名物・根曲竹を採りに来た農民に、彦右衛門は見つかってしまった。その農民は里に下りても、初めは口を割らずにいたが、誰にも言えずに胸の奥に秘め続けることで気を病んでしまい、周りから問い詰められた末にとうとう彦右衛門の隠れ家を話してしまった。そして、彦右衛門は差し向けられた刺客に首をはねられ、それを深く嘆き悲しんだ娘は淵へ身を投げた。

 

はねられた首は遠くへ遠くへと飛んでいき、落ちた場所は「野首(のくび)」と呼ばれるようになった。現在の岐阜県高山市清見町夏厩地区のどこかと言われており、実際に「野首」という姓がある。そして娘が身を投げた淵は「びいが淵」と呼ばれるようになった。「びい」とは、飛騨地方の方言で、女児を指す言葉である(男児は「ぼう」)。そしてこの話は、地元の人の口伝でのみ伝わる話だという。

 

彦右衛門の隠れ家があったと言われる場所には、今も樹齢900年ともいわれる1本のミズナラの大木がある。名前は彦左衛門(なぜか彦右衛門ではない!)今日はそこへ行ってきた。

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樹齢900年、彦左衛門。伝承の人物は彦右衛門なのに・・・

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ここは清見町彦谷、越中富山へと続く神通川源流の森。雪国の短い秋を味わった。

 

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