もののaware

飛騨にありて福島を思う

南会津の木地師・前編

木地師というテーマを入り口にした記事を書いたが、その後木地師についてより深く知る機会があったので、備忘録としてまとめてみようと思う。

monono-aware.hatenablog.jp

 

改めて木地師とは・・・

手挽き轆轤(てびきろくろ)を用いて、生木からお椀やお盆などを作る職人のこと。彼らの生活は山と共にあり、良質な材料を求めて山に入り、そこの木を伐りつくすと次の山へと移り住み、その都度山中に住居を構え、里との物々交換によって生きてきたという。

木地師の始まりは平安時代ごろ、惟喬親王(これたかしんのう)という人物によるものとされている。

惟喬親王は55代天皇文徳天皇の第1皇子として生まれたが、母親がそれほど身分の高い出でなかった等の理由から皇位を継承できなかった。

その後彼はいわゆる都落ち。部下を連れて「小椋谷(現在の滋賀県東近江市・奥永源寺地区)」という場所にたどり着き、手挽き轆轤を用いた木地加工を生み出したという。ちなみに手引き轆轤は、巻物をクルクルと巻く様子から発想を得たらしい。

惟喬親王は周辺の村人たちに手引き轆轤を伝授し、やがて木地師たちは全国各地へ散らばっていった。江戸時代には、この小椋谷に木地師の総本山が設けられ、木地師たち向けに全国どこでも自由に木を伐り轆轤を挽いてよいという許可証まで発行していたという。この無敵(?)の許可証片手に木地師たちは堂々と各地の山へ入っていったようだが、現地の里の人々と対立することもしばしば見受けられたそうな。

そんな森林資源豊かな島国・日本で隆盛を極めた木地師たちであるが、明治時代になると彼らは山から降ろされてしまったという。理由としては、本格的な戸籍制度の開始、土地官民有区分による山林の国有化、手引き以外の動力による作成が可能になり、わざわざ山で作らなくても良くなったことなどが挙げられる。お椀の材料を現地調達し、山から山へと移り住む生活様式は変更を余儀なくされ、いつしか彼らは姿を消した。だが、全国各地には木地師の営みの跡が今も点在している。

僕の地元、福島県にも、木地師の足跡が残る。その一つが、南会津郡南会津町田島の針生(はりゅう)地区。次回は、南会津木地師について書いてみようと思う。

 

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