もののaware

飛騨にありて福島を思う

職人になりたい

さいころから、木工職人にはなりたくないと思っていた。

 

同級生と比べて、お小遣いはもらえない、欲しいものは買ってもらえない、仕事休みの日が無く家族旅行にも行けない。

そんな劣等感から反骨精神が芽生え、ホワイトカラーの高給取りを目指すようになった。父は私の将来についてとやかく言わなかったが、建具業に先はない、継ぐ必要はないと言っていた。

 

そんな思いを抱え、大学進学に向け勉強に明け暮れていた時、東日本大震災原発事故を経験した。

 

 あの日を境に、我が家の家計はいっそう火の車になった。その後苦労して私を大学まで出してくれた両親には感謝しかないが、職人でなければここまで苦労しなかったのではと感じた。

 

結局大学でも、「職人より儲かる仕事に就きたい」一心で勉強と就活に臨み、福島県外でいわゆるホワイトカラーになった。

 

仕事は順調、完全週休二日制、収入もそれなりで福利厚生も良い、就職してから1年間は自分の生き方に満足していた。

 

しかし、それなりの規模の仕事を任せられるようになった2年目あたりから、大きなお金とたくさんのモノを動かす働き方に違和感を覚えるようになった。

同時に、故郷福島と消えゆく家業のことが気になり始めた。

震災のあったあの日からたくさんの福島県民が、想像を絶する試練に立ち向かい続けているというのに、自分は何もできていない。それどころか、福島県とは全く違う世界で、全く違う経済を回している。

福島を見捨てた後ろめたさは日に日に増していき、気付いたときには、福島に帰るための行動を起こしていた。

 

一般企業、公務員、大学へ入り直して震災について学ぶ…たくさんの選択肢を見つけたが、家業を継いで建具職人になるという道は最後まで選択肢に入らなかった。なぜなら「食べていけない職業」と思い込んでいたから。しかし、他の選択肢たちについてどんなに熟考を重ねても、しっくり来ることはなかった。

 

その時初めて、自分は建具職人をやりたいんじゃないかと気づいた。結局のところ、「大学まで出て、いい職場に入ったのに、それをわざわざ辞めて職人になる」と言い出すのが怖かっただけだった。

 

はじめは両親には反対された。しかしこれ以上に自分のやりたい道はないと確信できていたので、両親には黙って修行先に内定をもらってから、改めて事後報告をした。

今では、全面的に後押しをしてくれている。自分の人生はようやく始まった。

 

将来的に、特に金銭面で不安はある。しかし、足るを知れば、必要以上のお金は要らない。それに、いくら給与や福利厚生が充実していても、仕事に違和感を覚えた瞬間から満たされることは2度とない。

 

東日本大震災原発事故を境に、大量生産・大量消費、モノとお金に溢れた社会に疑問符が付き、自然との関わり方、人間の生き方を再考する時代が始まった。

 

木工とは、自然の恵みを人間の生活の中に共存させることができる、自然と人間の橋渡し役となる技術だ。木工にできることが、今の福島県にはたくさんあると信じている。