もののaware

飛騨にありて福島を思う

オトナの環境教育

 小さい頃、実家の工場の鉋屑に埋もれて遊んだものだ。鉋屑の山に飛び込めば、いい香りがして暖かい。当時飼っていた犬と一緒に暖まっていたのを思い出す。今思えば、あんなに長くて、幅がある、大量の鉋屑に囲まれた環境は貴重なものだったとよく分かる。

 先日、とあるイベントで鉋屑プールを作って、子供たちと遊ぶ機会があった。今時、こんな体験ができる環境なんてほとんどないだろう。はじめは子供たちが興味を示してくれるか不安だったが、杞憂に終わった。鉋屑の中で大はしゃぎする彼らの反応を見て、こちらまで元気になってしまった。はしゃぐ子供たちを遠巻きに遠慮がちに眺める別の子供だって、こっちおいでよと声をかければ一緒に遊びだす。一生懸命鉋屑を作った甲斐があった。

 今を生きる子供たちは、自然と触れ合う機会が無く、小さい頃からゲーム、スマホYouTube、このままでいいのか、という声をよく聞く。まあ確かにその通りだが、別に子供たちだって好きでそうしているわけじゃない。問題なのは、周りの大人たちだ。

 鉋屑プールで子供たちと遊ぶことで、その子供たちが普段どのような過程で育っているかが見えた。鉋屑にまみれれば、当然体中にまとわりついてとんでもないことになる。しかしそういうものだから何の問題もない。しかしその親御さんの反応としては、

「お兄ちゃんと遊んでもらえてよかったね~、ほら、ありがとうって言おうね」

という家庭もあれば、

「こんなに汚して、周りも散らかして、何してんの!謝りなさい!」

という家庭も見受けられた。自分だったらどちらの家庭で育った方が幸せか、答えははっきりしている。

 また、別の日に、小学生向けの森林の手入れ体験があり、僕も主催側として参加させてもらった。今回はいわゆる都会の子供たちが参加したが、こういうのは都会の子供たちの方がかえって新鮮に感じるようで、好奇心を爆発させて遊んでくれた。

 しかし、彼らを引率する先生方が、その好奇心を抑え込んでいるように見える場面が多々見受けられた。そんな些細なことで怒らなくてもいいのに・・・生徒の安全を預かる立場として理解できなくもないが、彼らのやりたい、知りたい、に蓋をしてはダメだろう。

 こういった経験から、本当に環境教育というか、自然体験が必要なのは、大人の方なのではと思うようになった。田舎で育ったからといって豊かな感性が育まれるかと言ったら、必ずしもそうではないし、都会にいながらでも自然を見る目は身につけられないことはない。結局は大人がどれだけ子供に機会を与えられるかなのだ。

 誰だって本質的には自然が好きだろう。そういう環境を用意さえすれば、子供は自由にのびのびと勝手に遊ぶ。彼らに環境と機会を与え、青天井の好奇心を見守る、そんなこともやってみたかったりする。そこに木工の入り込む余地はあると思っている。 

 

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