テーブルを囲む
今朝は少し早起き。お気に入りの大堀相馬焼の急須でお茶を淹れた。
平日の朝だと、なんだかんだ時間に追われて、ゆっくりお茶やコーヒーを淹れる気になれない。しかし何だ、急須に茶葉を入れて、お湯が沸くのを待つ時間ほど贅沢なものはないかもしれない。
今の季節なら、シェアハウスのキッチンから水を張った田んぼが一面に広がっている。これから秋の収穫まで、季節の移り変わりを教えてくれることだろう。
今朝はキッチンに先客がいた。同居されている方がコーヒーを淹れていた。ゆっくりとドリッパーにお湯を注ぐと、コーヒーの香ばしい香りが広がった。
同じ空間でそれぞれがゆっくり時間を使って飲み物を淹れる。静かで不思議な空間だ。
朝はいつも時間に追われて余裕がないと書いたが、それでも高山に来てからだいぶ心に余裕は出来た。木工を始めたこともあるが、シェアハウスに入ったことが大きいかもしれない。
先週、シェアハウス内で山菜の天ぷらパーティーをした時のこと。
入居している4人は皆生活リズムも働き方も違うため、一堂に食事に集う機会はあまりない。地元の山の恵みに舌鼓を打ちながら、それぞれの近況を話す。
そんな中、ある方が言った一言。
「エサが食事になった気がします」
その場にいた全員が、納得した。一人で取る食事は、朝はサーっと胃に掻きこんで終わり、夜は帰りが遅くなればスーパーの半額総菜やインスタント食品になりがちだ。まるで栄養補給のため、生きていくためのエサになってしまっていたかもしれない。
一方、何人かで集まって、一つのテーブルを囲んで食べると、貧相なメニューであっても美味しくなり、団らんの時間になる。みんなで山を歩いて手に入れたご馳走なら尚更だ。
家庭での食事もいわば井戸端会議みたいなものかもしれない。
水を汲みに行くという目的もあるが、それよりも誰かと話すという部分に重きがある。
一つのテーブルを囲むということは、モノを食べることにかこつけて、その場の人とより深く繋がるということなのだろう。
嬉しいことは話して2倍、辛いことは話して半分というのは本当だと思う。今日もキッチンに誰かがいたらいいなあと思いながら、明日からの1週間分の弁当のおかずを作るとしよう。