もののaware

飛騨にありて福島を思う

ストリートピアノが作る空間

NHKの「ドキュメント72時間」という番組。街角のスーパーや飲食店、イベントで72時間、そこに訪れる人々を撮影するドキュメンタリーだ。

 

今日の再放送で取り上げられたのは「神戸のストリートピアノ」。

神戸駅ビルの地下街に置かれたピアノを、かつてピアノ教師だった人やリタイアしてから趣味で始めた人、演奏会直前の学生や全くの素人…雑踏行き交う中で沢山の人がピアノに触れていく。

 

番組を通して、誰かがピアノを弾いていると、2、3人くらいの人が足を止めて眺めていたり、少し離れたところで座って耳を傾けていたりしていた。そして弾き終わるとパチパチと小さな拍手が生まれ、すぐに立ち去る人もいれば、初対面同士が二言三言交わすこともある。中には、そこから深い交流が始まることもあるだろう。

そしてしばらくすると、また新たな人が弾き始め、人の塊が出来上がる。

 

弾く方も足を止める方も、肩肘張らずにその短い時間を楽しんでいる。弾き手と聴き手が常に入れ替わっていき、1つとして同じ風景はない。

 

この絶妙な距離感を、私はとても心地良く感じた。

というのも、私は人付き合いがそれほど得意ではなく、みんなで交流しよう!知り合いを増やそう!的な、人との交流をメインに押し出したイベントにはやや抵抗感がある(もちろんそういうイベントも大切だろう)。

 

逆に、シンポジウムのような、人は集まるけれど互いに仲良くなることを必ずしも強要しない場で、あるテーマに対して自分たちの考えを交わし、その過程で知り合いになっていくような場は、とても心地良いと思っている。思いもよらなかった人と人とのつながりが増えていく場として、こういった場所も必要だろう。

ストリートピアノを中心に広がる出会いと別れの風景も、これに似たものを感じた。

 

その「出会い」を印象づけたシーンがあった。

仕事帰りにピアノを弾いていたある男性は、なぜ弾いていたのかとの質問にこう答えた。

 

「あなたみたいな人と、こうして話すきっかけになるから。」

 

男性は「みんなきっかけが無いだけで、誰かと話をしたいと思っている。」と続けた。

 

社会構造の変化と科学技術の発達により、人は誰かと関わらずとも生きていける社会になってしまった。そんな社会で、人と関わるきっかけを失って、孤立を深めている人はたくさんいるのだろう。

 

そこに行けば、誰かがいる。顔を出して、外から眺めているだけでもいい。義務的にその塊に加わらなくてもいい。でも、加わりたいと思ったときに、自然と輪の中に入っていけるような場所。現代社会に必要なのは、そういった緩くて広い入口だろう。

 

今日も神戸のストリートピアノを中心に、出会いと別れが生まれている。たった一台、そこにあるだけで、思いもよらない出会いが生まれるかもしれない。

そんなピアノのような場所や人がもっと増えていってほしいと願っている。