もののaware

飛騨にありて福島を思う

充電

久々に終業後、すぐに帰宅。道具の仕込みに課題の製作、やることはたくさんあるけれども、今日は充電の夜にすることにした。

 

まずは、崩れかけていた食生活を改善するために、庭のキュウリとナスを収穫し、漬物と揚げびたしを作った。と言っても先週も同じものを作っていたから、改めて言うほどの事ではないのだが。それでも、何度も作るうちに味のクオリティは上がってきた気がして嬉しいし、特に漬物は徐々に理想の味に近づきつつある。今回はニンニクを試しに入れてみた。明日の朝が楽しみだ。あとは本でも読んでゆっくりしよう。

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さて、ここ最近は、完全オフの日を作らない生活をしている。平日も週末も、何かしらのアクションを起こすことにした。飛騨高山にいられる時間は無駄なく使いたいし、何より僕にとって一番身近な職人である父が、休みのない生活をしていたから、それを追体験しようという思いもある。

 

とはいえ、やってみると中々大変だと分かった。今までの自分がどれだけ楽して生きてきたか、身に染みる。今の目標は、この生活リズムを習慣にしてしまうことだ。

明日からもがんばっぺ!

 

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建具屋親子の共通言語

小さい頃は実家の工場(こうば)で遊んでいた。横切り機や手押し鉋盤の周りを駆けずり回り、オイルやグリースの差し口を見つけてははしゃいでいた。角ノミ盤で木っ端に穴を空けてもいた。いつも父が近くで見守っていたわけではなく、今思えばけっこう危険なことをしていたと思う。

 

それでも一度だけ、危ないとしっかり叱られたことを覚えている(実際には何回も叱られていたのだろうが・・・)。小学校に上がる前、手押し鉋盤の起動中に、回転する刃物と上盤の間の空間はどうなっているのだろうと気になって、そこにカンナくずを差し込んでみようとした。

 

それをたまたま近くで見ていた父に、馬鹿野郎とすさまじい剣幕で叱られ、引っ叩かれた。当然の行動である。父が近くで見ていなければ、僕の指は無くなっていたかもしれない。

 

そんなことがあってからも、工場で遊ぶ日々は続いたわけだが、年を重ねるにつれだんだんそういうことはしなくなり、また建具屋という仕事が、社会的にどのくらいの立ち位置にいるのかという現実的なことも、子供心ながらに感じ取るようになり、何となく工場とは距離を置くようになった。それだけでなく、父の生業である建具屋という仕事からも目を背けるようになっていった。

 

そんな自分も、不思議なもので20代後半になってから木工の道を歩みだした。まだまだ分からないことばかりだが、木工機械や手工具の名称や使い方などを少しずつ理解し始めている。

 

特に、工房でたくさんの木工機械に触れていく中で、実家の工場の風景を思い出すようになった。帰省しても覗くのを避け続け、ほぼ忘れかけていた風景だったが、海馬にはきちんと記録されているようだ。

 

いつしか食卓でもタブー視されるようになっていた、建具業の将来と木工機械の行方。話そうと思ったこともあったが、何から話せばいいのか分からない状態だった。

 

でも今なら父親と木工の話ができる気がする。木工を始めてまだ3か月だが、木工屋と話すための共通言語は身に着けた。いつ帰れるかは分からないが、工場のボロボロのダルマストーブの前でコーヒーを飲みながら芋でも焼いて過ごす時間を夢見ている。

 

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感謝の正拳突き…?

木工で失敗する原因はたくさんある。気のゆるみ、慢心、過度の緊張など・・・

 

ここ最近で言えば、ノミ砥ぎに失敗した。

 

ノミは「裏押し」という作業を行ってから、「鎬(しのぎ)の砥ぎ」に入る。この裏押しという工程が、自分の感覚で割と簡単に、綺麗にできてしまったため、鎬の砥ぎも自分の感覚でバーッとやればいい具合に仕上がると思っていた。よって、職人さんが砥ぐ姿の見よう見まねで、テンポよくシャッシャと砥いでいく。

 

しかし、自分の思いとは裏腹に、平面を保たねばならないはずの鎬面はどんどん丸くなっていく。最終的には工房のスタッフさんに直してもらった。初心者なのだから、何でも上手くいくわけがないのは分かっていたが、全部自分一人の感覚で仕上げてやろうと思っていた分、とても悔しかった。いい勉強になった。

 

結局どうすればよかったのかというと、鎬面と砥石とが平面で接していることを感じ取りながら、ゆっくりやってみれば良かったのだった。

 

何においてもそうだ。結局のところどんなに時間がかかろうと、初めての事ならば、一個一個の動作を確認しながらゆっくりとやっていくのが一番の近道だ。そのゆっくりしつつ確実な流れを、何度も何度も確実に繰り返していけば、気付かないうちに自然とスピードは上がっていく。

 

そういえばこれは漫画「HUNTER×HUNTER」の「感謝の正拳突き」と同じではないか。

自分の肉体と武術に限界を感じた武術家・ネテロは、自分を育ててくれた武道に感謝の意を表し、その恩を返すために、山にこもって1日1万回「感謝の正拳突き」を始めた。

気を整え、拝み、祈り、構えて突く。当初は1回あたり5~6秒、1万回やるのに18時間を要した。

しかし、2年が経ったころに気付く。1万回突き終えても日が暮れていない。知らず知らずのうちに付きの速さは増していた。ついには所要時間1時間を切る。山を下りたとき、彼の正拳突きは音速を超えていたのだった・・・

 

音速でノミを砥ぐことは出来ないが、ゆっくり丁寧な砥ぎを繰り返すことで、いずれ職人の砥ぎに近づけるのだろう。急がば回れ、木工修行に近道は無い!

 

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夏の夕日と漬物

5月上旬に植えた野菜のうち、キュウリとナスが収穫できるようになった。

 

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キュウリは採るのが遅かった…



生まれも育ちの田舎のくせして野菜を育てたことがほとんど無かった自分でも、今のところ病虫害にかかることもなく、無農薬で何とかできてしまった。釣りのときと同じくビギナーズラックだろうか。

 

キュウリは漬物、ナスは揚げ浸し、これが一番うまい食べ方だと思っている。夏が終わるまで、食卓と弁当を彩ってもらおう。

 

特に漬物にはこだわりたい理由がある。

中学時代、野球部の顧問だった先生が、学校の小さな畑で夏野菜を育てていた。今僕がシェアハウスで植えているものと全く同じ、キュウリ、ナス、シシトウ。練習が終わり、日が傾き始めたころ、校庭の片隅にある藤棚に部員を集め、お手製の漬物をふるまうのが夏場の風物詩だった。

 

あれは糠漬けだったか味噌漬けだったか、じっくりタレに漬け込まれ、塩気の効いた漬物は練習後の体にとってこの上ないくらい染み渡った。ただし、シシトウの3つに1つくらいは「当たり」になっており、それを引いた部員は辛さで100m走り回る・・・というのは言い過ぎだが、たまに混じる激辛シシトウを誰が引くかというロシアンルーレットも含め、先生のお手製漬物は強烈に印象に残っている。

 

今のところ、人生で一番おいしい漬物なので、なんとかあの味を再現したいと思っているのだが、これが難航している。そういえば中学時代も、母親と試行錯誤しながら家で作ってみたが、同じ味にはならなかったっけな。

 

風の噂によると、その先生はとうとう校長先生にまで上り詰めたらしい。授業中おやじギャグを連発し一人でズッコケていた社会科教師が校長か、楽しい学校であることは想像に難くない(今どきの中学生とのジェネレーションギャップを感じていないか心配にもなるが・・・)。

 

校長になった今でも、漬物をまだ作り続けているだろうか。機会があれば、改めてレシピを伺いたいものだ。シェアハウスで育てているシシトウが一向に花をつけない理由も、先生なら分かるかもしれない。

僕も早く「当たり」入りの漬物を作りたい。

 

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コロナで消えた風景

猪苗代湖の風景の一部と言っていい、白鳥と亀をかたどった遊覧船。

今日、表磐梯、裏磐梯で湖上観光船を運営する「磐梯観光船」が公式ツイッター上で、廃業を発表した。

 

 

知らせを聞いた瞬間から、しばらく言葉が出なかった。

「はくちょう丸」と「かめ丸」は、猪苗代湖磐梯山と併せて、表磐梯のシンボルの一つだった。猪苗代湖が見えてくれば、そこに白鳥と亀がいる。僕が小さいころからそうだったし、これからもずっとあり続けるものだと思っていた。

 

廃業のツイートには、まるで2隻を弔うかのように、はくちょう丸とかめ丸にまつわる思い出のツイートが寄せられている。この船がいかに多くの人に愛されてきたかが容易に伺える。

 

4月に休業を開始してからも、公式ツイッター上では磐梯高原の美しい風景や、同時期の過去の写真がツイートされ続けてきた。誰よりも営業再開を待ち望んでいたのは、ほかの誰でもない磐梯観光船の皆様だったことだろう。

 

営業する側も水上を走らせたいと思っていたし、観光する側もいち早く乗れる日を待ち望んでいた。しかし、表磐梯の風景は失われてしまった。もう乗れないだけではない。2隻を見ながら昔あれに乗ったなあと、思い出を語ることもできない。

僕が乗ったのは記憶もないくらい小さいころだったと思う。大人になってからも、はくちょう丸とかめ丸を見るたびに、昔はあれに乗ったこともあったんだなと、思いを馳せてきた。

 

新型コロナウイルスの影響で、廃業を余儀なくされた企業は少なくない。全国各地で、文化や風景の消失が発生している。そして、一度消えた文化と風景は、元通りにするのは難しい。それは震災と原発事故以来、嫌というほど思い知らされてきた。

 

消費者も生産者も、思いは同じなのに叶わない。叶えることが出来ない。そういう時こそ、国が前面に出ていかなくてはならないのではないか。

新規感染者数だけでは、この状況の好転、悪化を語ることは出来ない。そこをきちんと理解したうえで、国には十分な対応を求めたい。

 

はくちょう丸とかめ丸をはじめとする磐梯観光船の遊覧船には、改めて感謝の意を表したい。運航は出来なくとも、何らかの形で残ってほしい。そして、いつの日か再び猪苗代湖を進む船の姿を見れることを願っている。今までお疲れ様。本当にありがとう。

 

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木工×針葉樹資源 ③日本の隠された財産

スギなどの針葉樹資源でモノづくりをすることについて。

 

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例えば、「福島県石川郡という地域について」で紹介した、針葉樹資源の町「古殿町」のスギを使って家具や木工品を作れないだろうか、と考えてみたりする。

 

古殿町の森林面積は82%、人工林率は75%にのぼる。林業・木材産業の衰退が全国的に叫ばれる中、古殿町も決して例外ではない。

 

林業活性化を目指すとき、生産コストの削減や、需要拡大など、取り組むべき課題はたくさんある。僕は、モノを作ることで針葉樹資源に新たな活路を見出したいと思っている。小泉元総理が、原発をトイレのないマンションだと言ったが、今の日本林業の課題の一つが、いかにトイレを設置して丸太を流していくかということだ(核のゴミである放射性廃棄物と、スギ丸太を同列で語るのは不適切であるが・・・)。

 

もちろん、仮に僕がスギを用いたモノづくりを実現できたとしても、その消費量は本当に微々たるものではある。でも、それによりスギだけでなく、古殿という町自体に新しい側面を生み出すことに繋がらないだろうか。古殿と言えばスギ、といった具合に。

 

古殿町には、手作りの和菓子や地酒、醸造品など、たくさんの名産品がある。ふるさと納税の返礼品も充実している。しかし、古殿町の豊富な針葉樹資源はこれらに比べて人々の目や手に触れる機会は少ない。

木工を通して、いつのまにか遠くなってしまった人と自然の距離を再び縮めることは、自分の目標の一つだ。スギ木工品の実現は一朝一夕で実現することではないが、古殿にもこんな資源があったんだと、地域内外の人が気づくきっかけを作ることにならないだろうか。古殿町出身ではない僕がこんな大それたことを言うもんではないかもしれないが、同じ石川郡の隣町ということで、町の行方、森の行方を他人事だとは思っていられないのだ。

 

戦後、将来の需要を見越して植えられた針葉樹資源の多くが、収穫期を迎えているにもかかわらず、採算性や需要の観点から収穫されずに残り続けている現状。では拡大造林は失敗だったのか?針葉樹資源は負の遺産になりかけているのか?僕はそう思いたくない。

木を育てて収穫して使うという行為は、野菜を育てるのとは違って、1、2年以内で結果が出るものではない。初めて間伐が行われるのは植えられてから30年後。30年後の情勢を見通すことなんて、誰にもできはしない。むしろ、30年間にいろんなことが起こるという前提の中で、時代時代に合った使い方を掘り起こしていくのが、今を生きる僕たちが果たすべき役割ではないか。

 

スギの学名は、Cryptomeria japonica、日本語で「日本の隠された財産」だ。通直に育ち、軽くて加工もしやすく、成長も早いスギは、木とともに生きてきた日本人にとってまさに宝物であったことだろう。

かつてほどのスギの需要は、今となっては無いのかもしれない。そんなスギに、新しい役目を与えることで、森の循環を未来へつないでいくことこそが、先人からの恩を返すことであると思っている。

 

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「道の駅ふるどの」にある、スギのチェーンソーアート作品



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木工×針葉樹資源 ②木材利用とまちづくり

スギなどの針葉樹資源を木工に使うことについて。

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今回は、自分が知っている「木工×針葉樹資源×地域づくり」の事例について。

 

1.studio Jig(奈良県川上村)

 節が少なく緻密な年輪が特徴の吉野杉。長野県の天竜杉、三重県の尾鷲檜と合わせて、「日本三大人工美林」のひとつにも数えられる。

 その産地の一つ、奈良県川上村で、吉野杉を使った家具作りを通して針葉樹資源の可能性を探っている方がいる。「studio Jig」の平井健太さんだ。

 平井さんは、Free Form Laminationという技術を用いて家具作りを行っている。直訳すると、「無形積層」。吉野杉の突き板を三層にも重ね、自由な成型を行う。

 一般に強度面の問題で家具にはあまり用いられない針葉樹であるが、年輪の緻密さゆえの吉野杉の強度と、平井さんの持つ技術とが合わさり、意匠と強度のどちらも欠けることのない作品が作り出されている。

 吉野川源流の村として、豊かな自然を守り継ぎ、下流に水の恵みを届けることを使命としている川上村。その使命を宣言として全国へ発信した「川上宣言」からは、村の目指す方向とその強い決心が伺える。その中で、特に歴史ある林業を中心とした村おこしに取り組むにあたって、平井さんの存在は欠かせないものになっている。

 そんな平井さんの理念は、家具には不向きとされてきた針葉樹の概念を変えること。吉野杉を始めとした針葉樹資源の新たな可能性を感じずにはいられない。

 

2.木工房ようび(岡山県西粟倉村)

 人口約1,600人、森林率95%の村、岡山県西粟倉村で、ヒノキを中心とした針葉樹資源を使った家具作りをしている場所がある。「木工房ようび」だ。

 ようびは、「やがて風景になるものづくり」をコンセプトとしている。作り手の顔や、家具が生まれた背景を作品に乗せて発信し、林業従事者、木工職人、お客さんを繋げ、新しい未来の風景を作っていこうというのが、代表の大島正幸さんの理念だ。

 書籍の中で大島さんは、とある機会に西粟倉村でヒノキ林を見て、針葉樹資源をどうにか有効利用できないかと思ったと記している。ようびで作られるヒノキの椅子は、強度、デザイン、座り心地に一切妥協はない。

 西粟倉村は、豊かな人工林資源を先祖から受け継いだかけがえのない財産と捉え、適切な手入れを進め、未来に残していこうという「100年の森林構想」を掲げている。村の共通の財産である針葉樹資源を、家具という形で人々の生活の中へ溶け込ませる木工房ようびの活動と、西粟倉村の取り組みから目が離せない。

 

 上記の例に共通して言えることは、自治体が森林資源の利用に対し明確なビジョンを持っていることだ。特に、森林資源は農作物や水産物と違い、はるか遠い昔から何世代にもわたって育んできた村民共通の財産であること、自分たちの生活を多方面で支えているものであること、そして受け継がれてきたはずのサイクルが今危機に瀕していることを、村自体がはっきりと理解している。

 このような中で、「川上宣言」や「百年の森林構想」が生まれ、村全体で森林を手入れして利活用を図り、未来へ守り育てていこうという土壌が出来上がっている。

 森林資源の管理や利活用が課題の自治体は全国にたくさんあるが、これだけはっきりとしたビジョンを描けている自治体はどれだけあるだろうか。こんな場所で自分もモノづくりをやってみたい、そんな自治体がもっと増えてほしい。

 

 諸先輩方の取り組みを前にして、霞んでしまうようなことかもしれないが、次回は自分が漠然と考えている、これからやってみたいことを書いてみようと思う。

 

 

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